十字架の丘
ドマンタイのバス停で降りた後は、バスに乗ってた人たちに教えてもらった木の道に沿ってずっと歩いて行った。
バックパックはシャウレイで預けずに背負ったままだったので、途中で少しずつ立ち止まりながら進んでいった。時々、辺りを見回すと道端に十字架が置かれているのを見かけた。
「こんなことならバックパックを預ければ良かった」とぼやきながら、とにかく道なりに20分くらい歩くと、ようやく十字架の丘に着くことができた。
着いて早速、靴を洗おうと観光案内所の中にあったトイレに入ろうとすると、またしてもコインを入れないと使えないタイプのトイレだった。
(…マジかよ)と財布を眺めても1リタスコインはない。途方に暮れてると、近くにいたおじさんが「これ使っていいよ」と1リタスコインをくれた。すぐに行ってしまいそうだったので「ちょっと待って」と引き止めて、バックパックの中にあった日本から持ってきた5円玉を出して「ありがとう、これはお返しに」と渡した。おじさんは「これは?」と一瞬驚いた顔をしたけど5円玉を受け取って行ってしまった。靴も無事に清められたので丘の奥へと進んでいった。
そして奥にたくさんの十字架でできた丘が見えた時は、なんだか少し不思議な感じがした。
初めてここに十字架が建てられたのは、ポーランド人とリトアニア人によるロシアの領土支配に対抗した蜂起が関係しているらしく、その蜂起は結局は失敗に終わり、反乱兵の家族が彼らの遺体のかわりに十字架を丘に建てた1831年11月以降ではないかと言われている。
その後、1918年にリトアニアは独立を回復し、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために祈る場所となったらしい。それから時代を経て徐々に十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになったそうだ。
リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年は、十字架の丘は特別な意味を持っていて、丘へ行き十字架を捧げることが、リトアニア人たちはとって彼らの宗教や遺産への忠誠心を示した。それは、非暴力による抵抗を表していたが、ソ連は三度にわたりこの丘にある十字架を撤去しようとしたらしい。
丘の上で無数の十字架に囲まれながら(ここにいていいのかな?)と思い始め、自分が場違いに感じてきたので、もうここからは去ることにした。
(これからもこの場所には十字架が置かれ続けるんだろうか、だとしたら最後は一体どうなるんだろうか?)なんてことを考えた。でも、当事者でもない僕は結局それを知ることはないだろうと思った。
そうして十字架の丘を後にして、来た道を戻りドマンタイのバス停へと向かった。
バス停に着いた頃には、最終バスの時間の10分前だったので少し焦ってしまった。
一人夕日の中でベンチに座って、たまに空を見上げたりしながらシャウレイ行きのバスを待って、やがて最終バスが来る予定の時間は過ぎたが、なんかバスは来なかった。
つづぐ